伝記の筆者が語る、素顔のメル・ブルックス


It's Good to Be the King: The Seriously Funny Life of Mel Brooks


今年の二月、メル・ブルックスの伝記"The Seriously Funny Life of Mel Brooks/IT'S GOOD TO BE THE KING"が発行されました。ぽつぽつ読んでいるのですが、何しろ300ページを越す大著。とても面白いのですが、なかなか進みません。

メル・ブルックス当人や周辺の人々に取材し、この伝記をまとめたJames Robert Parishのインタビューがあるので、そちらを要約してご紹介します。原文はこちらにあります。誤訳など間違いを発見した方、ご指摘いただけましたら幸いです。


「James Robert Parish氏が語る、メル・ブルックス

カメラが回っていようといまいと、家族やごく親しい友人に対しても、常に「他人を楽しませよう」としている。トークショーではもちろん、ぶしつけなレストランの店員に対しても、そして演出をするときも、ひとを動かすために、注目を集めるために、そしてプライベートを守るために、彼はユーモアを活用する。80歳を超えた今も彼のユーモアの泉は枯れることなく、常に「面白い男」であり続けている。

  • メル・ブルックスの作品群の中で、とくに1970年代前半のものが熱烈に受け入れられ、それ以降の作品はそうでもなくなっていったのはなぜでしょう? 作品の質の問題なのか、宣伝の問題なのか、あるいは、70年代という特殊な時期に、映画ファンを映画館に足を運ばせる何かがあったのでしょうか?

1970年代のブルックス作品、特に『ブレージング・サドル』『ヤング・フランケンシュタイン』『新サイコ』の三本は、メルのクリエイティビティもおもしろさも頂点に達した時期の作品。この時期、ブルックスは脚本の共同執筆者たちと、積極的によい関係を築いていた。ブルックスの作品中、最も優れた構造を持つ『ヤング・フランケンシュタイン』では、ジーン・ワイルダーと、脚本作りの段階から撮影現場まで、見事な二人三脚をやりとげた。

(negi注・このころの共同執筆常連で後に『バンディッツ』などの監督となるバリー・レビンソンが新サイコに「新聞を届ける男」で出演したり、後年、ピンクレディのアメリカ進出ショーという非常に珍しい番組のディレクターを務めたルディ・デルカも、同じく新サイコ、サイレント・ムービーなど共同執筆の傍ら出演し、実に脚本家たちが楽しんでいた)

彼の作品が70年代の客層に特にアピールしたのは、反体制的思想とシニカルなユーモア。さらに言えば、70年代のメル・ブルックス作品は、あの時代、とても新鮮だった。『世界史パートI』など1980年代の作品が映画ファンにとって新鮮なアピールを持てなかったのは、同じような繰り返しと、はっきりとした風刺対象、もてあそぶ体制や権威を失ったように見えたこともあるのではないか。

ブルックスの対外的な姿勢、映画作りの姿勢には、ともに彼の人生経験が色濃く反映されている。彼はブルックリンのユダヤ居住区で少年期を過ごし、幼くして父を失った。そんな彼が街角にたむろする連中の間で生き抜いていくために、とびっきり面白いやつにならなければならなかった。体力的に勝つ見込みがないから、瞬時の判断力や面白いことを考える能力、笑いのセンス、目立ちたがり、そんな要素で彼は「近所で一番面白い子」の地位を勝ち取った。(ニューヨークから車で2時間ほどの)カッツキル・リゾートで夏の間働くときも、第二次世界大戦の兵役でヨーロッパで反ユダヤ主義の洗礼を受けたときも、この宮廷道化師のような面白さで乗り切った。1946年、兵役を終えると、彼はニューヨークに戻った。

メル・ブルックスのキャリアを語るとき、本当に心から親密に、心の父であり、兄であり、時に第二の自分自身とすら慕ったシド・シーザーの名前ははずせない。シーザーとの親交を通して、ブルックスはテレビ業界に進み、1940年代後半から1950年代に放映された、たくさんのシーザーのテレビショーの、優れた脚本家チームの一人となった。常に競争心を忘れないブルックスは生き馬の目を抜くテレビ業界を見事に生き抜き、ブロードウェイの戯曲やその他のテレビショーなどの仕事にも進出していった。その中のひとつが、バック・ヘンリー(後にバンクロフトが出演した『卒業』の脚本を書く)と共同原案した『それいけスマート/Get Smart』である。

1964年にアン・バンクロフトと結婚したとき、ブルックスは既に一度結婚して離婚し、子供が三人いました。そのころ、バンクロフトは順調だが単調なハリウッドの仕事を離れ、ブロードウェイの舞台に立って大成功を収めたとき。そんなバンクロフトとブルックスは、およそ似合わないカップルに見えた。夫はユダヤ教、妻はカソリック、妻は高尚なトニー賞舞台女優、夫は低俗な放送作家、妻は誰もが振り向く美女、夫は面白い顔のチビ。

しかし、二人は互いに、自分にない必要なものを補えるカップルだった。二人は互いの仕事の成功を喜び、一緒に仕事する時間をとても楽しんだ。たとえば1983年の"To Be, or Not To Be"のように。バンクロフトは猪突猛進的なブルックスのなだめ役でもあり、二人のプライベートに於いて、ブルックスは、バンクロフトが求めてやまなかった心からの敬愛の念と日常生活でのユーモアを忘れることがなかった。二人の間には、マックスという一人息子がいて、放送作家/作家となった。

  • ブルックスに関し、なんらかの事情で立ち消えになった企画はありますか?

1970年代初頭に着手しようとしていた、イギリスの王政復古を題材にしたコメディの映画化、"She Stops to Conqer"に、ブルックスはイギリス人俳優のアルバート・フィニーを希望していた。が、フィニーがのってこなかったので、最終的にブルックスはこの映画化をあきらめた。

ブルックスの最もシリアスな作品は、1991年の「逆転人生」("Life Stinks")。不動産王の大資本かがLAのホームレスになり、ホームレス仲間の女性(レスリー・アン・ウォーレン/negi注・デスパレートな妻たちでスーザンの母を演じた女優。この映画では素晴らしいダンスを見せる)と恋に落ちる、という役を演じた。数十年にわたる自分の「成功」が、彼の日常とあまりにかけはなれていることに気づいた結果、この作品を撮りたくなったらしい。が、興行的には成功しなかった。効果的な宣伝が足りなかったこともあるが、観客はブルックスに、爆笑コメディを求めていたのに、この作品が社会風刺的側面の強い作品だったから、というのも事実。

  • 最後に伺います。メル・ブルックスについて取材している間に、一番驚いたことは何ですか?

わたしが最も興味深く感じたのは、メル・ブルックスの驚くべき立ち直る力です。数十年の間、仕事的に不遇であったとき、たとえばシド・シーザーのショーをやめたあとの時期や、あるいは、1987年にスペースボールでヒットを飛ばすまでの低迷期を経ても、彼は必ず立ち直ってきた。パロディとして成功したとは言えない、1995年の「レスリー・ニールセンのドラキュラ」の後も、低迷期が続いているように見えた。そして数年後、ブロードウェイの大ヒット作「プロデューサーズ」で頂点に返り咲いた。

2005年、妻であるアン・バンクロフトの死という個人的な大ショックのあと、今、彼は再び立ち上がった。ミュージカル「Young Frankenstein/ヤング・フランケンシュタイン」を完成させる、という目標を持って。


(文責・negi)