The very first draft of Roger Bart's biography

近々まとめたいと思っている、ロジャー・バートのプロフィール。覚え書きメモ。

※まったく何も資料を見ずに書いているので、間違いだらけです。とにかくラフだと思ってください。

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1962年9月29日、コネティカットで生まれる。物心ついたときにはニュージャージーに転居しており、当人は「根っからのニュージャージー育ち」と言っている。

父は化学者、母は教員、長兄は弁護士、そのほかに兄と姉がいて四人兄弟の末っ子。

非常に堅実な家庭であり、芸能関係に進む素地は、ほとんどないに等しかった。せいぜい「夕食の時にシャレを言って家族を笑わせる」程度。ただし、父方の叔父がヴァラエティ紙のエディター・イン・チーフという芸能界の重鎮と言っていいピーター・バート。ピーターおじさんの手引きはほとんどなかったようで、返って、「あのピーター・バートの甥だから厚遇されている」と陰口をきかれることもあったらしく、若い頃はあまりおじさんのことを語っていない。後年、トライベカのイベントで、ピーター・バートがモデレータを勤めたトークショーのパネルとしてロジャー・バートが出席するなど、こだわりは消えたように思われる。

小学校の頃は、プロ野球選手になるのが夢だった。少年野球チームのピッチャーで4番。父親の仕事の関係か、ニュージャージー州の中でなんども転居しており、転居先の中学に入ったときは、野球より女の子に夢中になる。後年、ゲイの演技がうますぎて「当人もゲイ?」とあちこちで言われた頃、『プロデューサーズ』で名コンビだったゲイリー・ビーチが「ロジャーがゲイ? 冗談じゃない、彼はスーパー・ヘテロだよ」と語った記事がある。

プロ野球選手の次は、プロゴルファーになりたかった少年時代。その後には尊敬する長兄と同じ職業に就きたい、と憧れたが、弁護士になるほど勉強が好きでなかった、と当人が語っている。少年期からコーラスなどに参加するのが大好きで、高校ではバンドを組み、ベースを担当。歌ったり演技したりするのが向いている、とは思っていたらしい。堅い家庭ながら、実は、少年時代にコマーシャルに一本だけ出演している。ラトガー大学に入学するとき、第一専攻を演劇、第二専攻を経済にした。「演劇が向かなかったら、ほかの仕事をしようと思っていた」。しかし、めきめきと頭角を表し、19歳の頃にはキャバレー・シアターでさまざまな舞台を踏む。このころ、『トライアンフ・オブ・ラブ』で共演したチャンバリンと出会っている。当人は早くからコミカルな役を希望していたが、なぜか「若い、堅苦しいイギリス人青年」の役ばかりあてがわれた。それが今の彼の、深い絶望感や意図的な無表情の抜群のうまさに通じているかもしれない。

その後、さまざまな演劇経験を積みつつ、22歳のとき、ガールフレンドが女児を出産、若いパパとなる。結婚はしていないが、父親としての自覚ははっきりと持っていた。結婚という形式は、理由は分からないが、避けている模様。ネクタイも大嫌いらしく、いろいろな意味で「縛られる」ことが嫌いな人なのかもしれない。

25歳でブロードウェイデビュー。『ビッグリバー』のトム・ソーヤ(リプレイスメント)。軽快で敏捷、そして明るいこの役は、当時の彼にぴったりだったと思われる。順調なデビューといえる。

が、その先は平坦な道ではなかった。

オーディションを受けても受けても、ツアー、もしくは地域限定公演に回される。『秘密の花園』『トミー』『ファルセット』『ハウ・トゥ・サクシード』、などなど。この頃、地方周りで2000人、3000人クラスの劇場やイベント会場での演技を経験、「顔の表情や仕草ではおもしろさが伝わらないことをこの頃たたき込まれた。身体全体からメッセージを発する訓練は、ここで培われた」と語っている。

30歳になる前、このまま役者を目指していいのか、やめるべきか、真剣に悩む。両親とも相談した模様。もちろん、自分自身でバーテンをやりながら、糊口はしのいでいたが、両親にとっては「早くこんな仕事はやめて、まっとうな仕事についてほしい」が本音。ロジャー・バートは、30歳をひとつのめど、と決めていた、と語っている。それまでに役者として食べることができなければ、きっぱりやめるつもりだった。「夢を追いかけるには、どこかで現実的な判断をしなければいけない」と、トライベカのイベントで語っている。その後、バーテンダーの収入より、役者としての収入が初めて上回った歳の暮れ、大切な人と乾杯したという。

そして、ジョナサン・ラーソンとの運命的な出会いにも触れなくてはならない。双方の友人の紹介で知り合い、お互いにすぐ意気投合、大親友となる。カナダ発の一風変わったワンマン・アンド・ピアノプレイ、『Billy Bishop Goes to War』の地域限定公演で、二人とも評論家に絶賛される。ジョナサンがピアノを弾きつつコーラス、ロジャー・バートが一人で15役を演じ分け、歌った。セットは椅子が一つ。それが戦闘機の座席となり、ガールフレンドに言い訳の手紙を書く椅子ともなる。この台本は今でも手にはいるが、笑いを誘うさまざまな記述と、ラストのコントラストが素晴らしい。どのように演じたのか知るよしもないが、二人だけの舞台はこれ一本である。

その後、ジョナサンが『レント』のドラフトを書いたとき、ロジャー・バートから「ロジャー」役の名前をつけ、最初のデモテープではロジャー・バートが歌い、演じた。

互いに飲食店で働きながら夢を追いかけていた。二人でデモテープを作ったり、「十代後半の頃のサイモンとガーファンクルのように」公園のベンチに並んで座って、何時間も「これからのミュージカルはどうあるべきか」語り続けたという。

『トミー』のワールドツアーでドイツから帰ってきたその日、ジョナサン・ラーソンの死を伝えられる。大動脈瘤破裂による急死。そのあたりのことについては、「信じられなかった」とだけ語っている。どれほどのショックと悲しみであったか。ずっと後になって「(Rentのヒットによる)お金で、新しいスニーカーも、もっといい自転車も買えたのに」と振り返る。

『トミー』のツアー中に、ディズニーの『ヘラクレス』で少年時代の歌を歌わないか、というオファーが来る。今も名曲として残るこの曲、フィギュアの王子様ジェフリー・バトルもエキシビジョンで使った『Go the Distance』。同年、同じメンケンによる『キング・デイビッド』でのジョナサン役を演じた。ジョナサンがメインの歌は一曲しかないのだが、『Go the Distance』と合わせて、その独特な音色と歌唱力、表現力により、ようやくブロードウェイへの道が開ける。

1997年、『トライアンフ・オブ・ラブ』でハーレクインを演じる。舞台自体はキャストの評価が高いまま、宣伝の問題、セットの問題など、さまざまな噂はありつつ、はっきりした理由は分からないが短命に終わる。しかし、ロジャー・バートの評価は確実に上がっていった。

同じ頃、映画『インサイダー』で、ほんの数シーンだが、印象的なホテル・マネージャー役で映画デビュー。

その後、リージョナル公演で興味深いショーにいくつか出演。そして1999年、運命の作品、『君はいい人、チャーリー・ブラウン』のスヌーピー役。演出は『トライアンフ・オブ・ラブ』と同じマイケル・メイヤー。この作品でトニー賞ミュージカル助演男優賞を獲得。受賞スピーチで、ジョナサン・ラーソンに「これはキミのだよ」とブロンズ像を掲げてスピーチを締めくくった。当人によると、上がりまくって、本来感謝すべき人をたくさんとばしてしまった、この性格は治らないだろうか、と語っているが、おそらくほとんどの受賞者も同じだろう。

だが、それでも、まだ「十分に食える」状態ではなかった。当人は「トニー賞のノミネートのメールが来た日に、コマーシャルのオウムの声のオーディションに行った。そして、落ちた」と語っている。ロジャー・バートスヌーピーと、サリー役クリスティン・チェノウェスがトニーを受賞、しかし、受賞後、わずか8公演でその舞台は終わってしまった。舞台は、一期一会。特に、ブロードウェイのような商業演劇は、いかに評価してくれる人がいても、終わるときは終わってしまう。

その後、ワンマンコメディ『フリィ・コミッティッド』のリプレイスメントで、コメディの才能が爆発。たったひとりで20数役を演じきった。

エージェントは彼をさまざまな作品に売り込んだ。その中に『スプリング・アウェイクニング』がある。売り込みというより、マイケル・メイヤーの指名だったようだ。しかし、台本をブラッシュアップしてゆくうちに、その役自体が不要になり、ロジャー・バートの出演は立ち消えとなる。この「マスクド・マン(仮面の男)」については、元々のヴェーデキントの戯曲について面白い分析があるので、いずれ加筆する予定。

サグ・ハーバーで、小さな芝居をやっているとき、『プロデューサーズ』のフランツ役オーディションの話が舞い込んだ。オーディションに臨んだが、もちろん落ちた。大男のドイツ人。まったくキャラクターが違う。しかし、去ろうとするロジャー・バートに演出のスーザン・ストローマンが、リーディングのでカルメンを演じたマリオ・カントーンが降りたのでカルメン役も探していたことを思い出し、「カルメンの台詞をやってみない?」と声をかけ、10分で台詞を覚え、アドリブで演じた「Yessssssssssssssssssssssss」。完全にスーザン、メル・ブルックス、トマス・ミーハンの心をつかみ、カルメン役即決。

その後、シカゴのトライアウト初日に、当時のガールフレンドが彼にとって二人目の子供を出産。彼女とも結婚はしていない。子供は大好きで相当かわいがっている。上が女子大生、下が幼児という、年の離れた腹違いの姉妹。どちらも目の中に入れても痛くないほどかわいいらしい。

プロデューサーズ』が2001年6月にトニー賞を総なめした翌日、メル・ブルックスは「レオのリプレイスメントロジャー・バートにやらせる」とリーク。いまだそのニュースはオープンになっていなかったので、スポークスマンがあわててあとから訂正を入れた。が、それは後に現実となる。

2002年、『プロデューサーズ』のカルメンを下りたのは、テレビシリーズ『プラム・アンド・アリス』に出演するためだった。しっかりした作りの大変面白いドラマなのだが、なぜかアメリカ人には受けなかったらしく、短期打ち切り。一見ついていない話なのだが、そのお陰で予定より早くレオ・ブルーム役として『プロデューサーズ』に戻り、リプレイスメントとしては最高、と評価する声もあり、その後計5回も戻ることになる。それが『ヤング・フランケンシュタイン』の主役に通じる道ともなったのだから、人生はほんとうに、どう転がるか分からない。

その後、折々レオとして舞台を踏みつつ、カルメンを見てキャスティングされた『ステップフォード・ワイフ』、人世の大きな転機となった『デスパレートな妻たち』と映像の仕事も続く。

デスパレートな妻たち』のジョージ・ウィリアムズは、人当たりのいいさえない40男。美人の人妻が、夫の浮気への腹いせとしてジョージに声をかけ、初デート。人妻はほんとうにただのあてつけだったが、ジョージの気持ちはどんどんエスカレート。当初、シーズン1の3エピソードだけの契約だったが、ロジャー・バートが命を吹き込んだジョージは予想を上回る面白いキャラクターに育ち、最終的にシーズン2も含めて14エピソードに出演した。

ロジャー・バートは、かなり早い頃からインターネットをやっており、ツアー公演の感想などもチェックしていた。そしていつも「ロジャー・バートさえ出ていなければ面白い作品だったのに」と書かれていたらどうしよう、とドキドキしていたという。そんな彼が、「大嫌い」「気持ち悪い」「死ねばいいのに」などとジョージについて書かれた記事を、平然と読めるわけがない。一時期、本当にインターネットから遠ざかったらしい。ちなみに、コンピューターはマッキントッシュを使っている、という噂がある。アップルストアでの目撃談も。

デスパレートな妻たち』の収録と一部かぶる時期に『プロデューサーズミュージカル映画版の撮影。掛け持ちはムリだろう、という声に、フランツ、マックスのリプレイスメントをつとめたジョン・トレーシー・イーガンのインタビューによれば、メル・ブルックスが「どうしてもカルメンは彼でなければダメ」と言い張り、出演が確定する。ゲイリー・ビーチとも「二人とも出るのなら出る。片方だけなら出ない」と約束をしていたらしく、ゲイリーの後押しも大きかったようだ。

その後、スプラッタホラー『ホステル2』を経て、いま、『ヤング・フランケンシュタイン』の主役をつとめる。

相当しんどい季節も経たけれど、彼の周りにいつも、彼を愛し、ともに成長してくれるひとたちがいた。そういう人々とファンを大切にしてゆく限り、きっと成長し続けるだろう。

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いずれ、きちんと資料にあたって書き直します。また、年表もつけます。メインサイトに、きちんとロジャー・バートのプロフィールを作りたいので。

今はコレでご勘弁ください。



ROGER BART unofficial website